欄外に記した密やかな決意


 裁判所。
 仕事場と称して問題のない場所だが、建物全てを網羅している訳ではない。踏み込んだ事のない場所、逢った事のない人物。そんなものは、王泥喜にとって多く存在した。

 今、王泥喜が通された部屋もいわばそんな場所だ。
 そんなに大きな部屋ではないが、小綺麗な応接室といった場所。柔らかなクッション素材のソファーは、腰を深く沈めてしまいかえって居心地が悪い。
 蒸し暑い外から来た王泥喜にとって、快適であるはずのクーラーも寒い。
 それも、これも骨の髄まで染み渡る貧乏の所以だ。
 白い汁が垂れたような模様の入った湯飲み茶碗には、並々とつがれた緑茶が入っていて、舌に渋み以外を感じさせるお茶など、ついぞ飲んだ事もなかったのでまるで、お茶ではなく別のもののようだ。
 ああ、馴れない。このお客様扱いは…。不快というよりも、尻がむずがゆくなる感覚。
「お待たせしてすまないねぇ。」
 如何にも、お偉いさんといった風情の中年男性が好意的な雰囲気を全面に押し出して部屋へ入って来る。王泥喜も立ち上がり、軽く会釈をして彼を迎える。そして、次に入ってくるだろう人物を視界に入れようとして、目を剥いた。

「牙琉検事…。」

 思ってもみなかった相手の出現に王泥喜は言葉を失う。響也は唇を引き結んだ表情で、王泥喜に頭を下げた。
「彼も主席検事という立場上、同席させてもらう事にしたよ。」
「…そうですか。」
 王泥喜は胸中に湧いた不穏な考えをお茶と共に腹に戻し、かろうじて言葉を返した。


 結審した裁判があった。弁護人として法廷に立った王泥喜は、被告人も納得のいく判決をもらってその仕事を終えた。
 ところが、問題が起きたのはその後。とある雑誌にすっぱ抜かれた記事によって、検事側が意図的に証拠を隠していた事が明らかになったのだ。
 判決を左右するような資料では無かったが、メディアの前に晒された事で当人が考える以上に騒ぎが広がり、(この間の陪審員制度の件で若干名が知られた事も禍したようだ)終息させる為にこうして話し合いが持たれる事となった。 
 依頼人にも騒ぎは困ると頼み込まれて、王泥喜は足を運んでいる。
 己の罪状をでかでかと載せられるのは、幾ら匿名扱いでも嫌に違いない。その事を踏まえて、王泥喜は和解という名の詫びを受け入れるつもりでいた。
 
 響也が姿を見せるその時までは。

 その際の検事は響也ではないし、実際に法を犯してしまった刑事も彼の部下ではない。自分と牙琉検事が親しい事を知っていて、懐柔の為につれてきたのだろう。
 本来真っ先に詫びをいれなければならない相手は結局姿を見せることは無かった。



 予定を終えて、外を見ると雨が街を濡らしていた。
 王泥喜の脳裏を掠めたのは、此処へ来るまでは入道雲が見えるほど快晴だったという思い。しかし、今、現実に雨が降っている。事実に異議を申し立てても仕方ない以上、何も考えず足を塀の外へと向けた。
 収まり切らない憔悴感が沸き上がり、心臓がじくじく痛い。
 マスコミへの対応も含めて、全ては穏便に終わった。仕事は仕事だ。世の中が、綺麗事なんかで出来ていない事くらい、王泥喜は良く知っている。
 それでも、こんな事になるとは思ってもいなかった。

 まるで幼い頃に読んだ『嵐の夜に』という童話のようだ。敵同士で友人になった羊と狼は、それを仲間に知られた途端、敵対勢力への道具と認識されてしまう。
 自分がそう扱われる分にはまだ我慢が出来た。なのに、現実はこうだ。
 響也を巻き込んでしまった不甲斐なさに、何をどうしたらいいのか判断がつかない。駆け出し弁護士である自分に、自らなんの落ち度もない響也が頭を下げるという状況は、彼に何を思わせたのだろうか。考える事すら恐かった。

「おデコくん。」

 道路に打ち付けられている雨粒が、心なしか激しくなった気がした。水溜まりに足を踏み入れる音が近付く。
 すぐ側に気配を感じて、王泥喜は斜め下に視線を落としたまま口を開く。
「来ないで下さい。」
「でも、濡れているよ。」
 柔らかな響也の声が、却って腹立たしい。怒りの原因が彼ではないのにと、そう思えば思うほど、閉塞感に憤る。
「いいんです。用意していない俺が悪いんですから。」
「じゃあ、傘だけでも持って帰って。僕の私物だから、好きな時に返してくれればいいから。」
 バサリと傘を広げる音がして、歩道のブロックをただ見つめている王泥喜の上に影が出来る。雨粒を弾く音が、微かに耳についた。
 
「今回のことは本当に申し訳…「もう、牙琉検事からの詫びは聞きました。」」
 ギュッと拳を握れば爪が肉に食い込む。痛みは、まま心のものだ。「貴方が謝る必要なんか、ないじゃないですか…。」 
 謝るどころじゃない。あんな場に来る必要だってない。
「それとも。何かしたとでも言うんですか!?」
 吐き出す言葉の勢いのまま、王泥喜は振り返る。響也は、聞こえていた声と同じように柔らかな表情で王泥喜を見かえした。
「僕は何もしていないよ。そんな事をしても、真実は見えないからね。」
「馴れあいって言う、真実ははっきり見えましたけどね。」
 吐き捨てるように告げた言葉に、響也は笑みを浮かべた。
「そういうのおデコくんらしいな。」
 クスリと笑う。そして一歩近付き、王泥喜に差し掛けていた傘を彼の前に差し出した。それでも、王泥喜は腕を伸ばそうとはしない。
 響也は、少しだけ眉を潜め、傘を持った手で額に向けて指を伸ばした。
「おデコくん…じゃなくなってるね。」
 降り注ぐ雨粒が、王泥喜の前髪をしんなりと額に張りつかせていた。触覚の項垂れたようすで他の髪に従っていた。ただでさえ童顔の貌は、学生と言っても通るほどに幼い。
 それでも、意志の強い瞳は表情を変えない。
「俺らしいって…。俺はただ、形ばかりの謝罪の言葉を受け取って、当事者の顔も見ることなく、笑ってただけです。」
「だから、おデコくんらしいって言ったんだよ。」
 愛おしそうに、前髪を指に絡めて響也が笑う。
「被告人の為にも、騒ぎを大きくしたくなかったんだろ? 検察側を逆に訴える事も出来たのに、君は名声を良しとはしなかった。流石、成歩堂さんちのこ…かな?」
「あれは、みぬきちゃんのパパですから…嬉しくはない。」
 普段以上に、拗ねた言葉を響也に返して居ることに気付き、王泥喜は目の前の青年を見上げた。甘えたがりの年上の恋人は、今日だけは揺るぎないほどに強く、優しく見える。悔しいけれど、人生経験の差というヤツだ。
 
「なんだい?」
 小首を傾げる響也の腕に手を置く。引き寄せる強さで、肩口に顔を埋めた。
「すみません。濡らします。」
「オーケー。構わないよ」
 両手で傘を持ったまま、響也が笑う。雨に滲む街並みの中で、腕に触れている彼だけが確かな存在。

「王泥喜法介は大丈夫です。」

 ふいに耳元で囁かれた言葉が、涙腺を刺激する。雨でぐしゃぐしゃな顔だから、多少しょっぱい汗になっても変わりないだろうけれど、嗚咽と一緒にぐっと飲み込む。
 やせ我慢だろうが、何だろうが最低限の男のプライドだ。
「それ、俺の台詞ですから。著作権侵害で訴えます。」
 不機嫌な声で言い返せば、クスクスと笑い声。
「君がまた、自己暗示だなんて思うといけないから、僕が言うんだよ。」

『僕の法介は大丈夫です。』
 
 嗚呼もう、この人は。どんだけ好きにさせれば気が済むんだろう。俺をどんだけ離れがたく思わせればいいのだろう。

「大丈夫。そう依頼者に報告にいかなきゃいけないんで、傘を貸して下さい。」
 抱き締めていた腕を外して、手を差し伸べる。はいと差しだされた傘を受け取って、くるりと回してみせた。
 此処で笑わなきゃ、男じゃないぞ王泥喜法介。
「必ず返しに来ますから、待っててください。」
「いつでもどうぞ、おデコくん。」
 にこと笑うと指を鳴らし、元来た道を帰って行く。綺麗な後ろ姿は直ぐに雨に紛れて見えなくなった。
 彼が気にしていない事を、自分がくよくよと考えているのも可笑な事だと王泥喜は思う。そんなものに、囚われるよりも、早く並び評される存在になりたいと確かに願う。

そして、
 
 俺の響也。

 そう囁いてやると王泥喜は誓った。

〜fin



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